前回のつづきでございます。
食べられない子を落ちこぼれとして見せしめにし、「それが嫌なら食べられるようになれ」と促すことにはもう、なーんの生産性もない。
周りと同じようには食べられない人がいるのなら、周りよりも食べられる人もいる。決められたおかわりだけじゃ足りない人だっている。好きなものならいくらでも食べられるけど、好き嫌いは割と激しい人。好き嫌いなく食べられるけど、量はそんなに必要ない人。
誰かの苦手を誰かの得意が補って、クラス全体として完食することを目指す。集団としてのフードロスについて考える方がよっぽど生産的だと思うんだよな。
「連帯責任」とかいう激ヤバ思想じゃなく、クラスという社会の「需要と供給」をうまくやりくりしながら、完食という目標を達成していく。これは経済の勉強にもなりますよお母さんお父さん。英語だのプログラミングだのより役に立つかもしれませんよ、ご家庭でもできますからねっ。
「給食の時間だけはスター」っていう人が現れるかもしれない。食べられる人が尊敬される時間があったっていい。いっぱい食べないといけない体質だってあるんだし。そうなればきっと、食べられない人の体質や「食べられない以外の部分」に目が行く時間だって生まれる。
色んな生徒がいて良かった。それを教えてくれる家族以外の大人がいて良かった。デジタルまみれの時代は進んでいくだろうけど、食はたぶん、どこまでもアナログでしょ。基本は人間なんだってことを愚直に、柔らかく学べるような可能性がね、給食にはあってほしいんだよな。
僕にとって給食は、とても楽しい時間だった。クラスメイトの食べ方から学ぶことがたくさんあって、残さず食べたいとか、もっと上手に食べられるようになりたいとか、誰に強要されることなく、食への興味が広がっていくような。
ただその、昼休みに野球やるのも楽しみだったもんだから、早食いの癖がついちゃってね。何かちょっと無駄に太ってたけど。
※この記事は不良品なので、次の記事も読んでやっておくんなさい。
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