2018年11月16日金曜日

手術は硬い

 アスリートが大きなケガをすると、手術の話になる。

 外科手術っていうのは「硬い」手段。

 そのアスリートのプレースタイルが「硬い」場合は、手術との相性も悪くない。

 プレースタイルが「柔らかい」アスリートは、周りがどう言おうが、手術しない方法を徹底的に探る方がいい。

 せざるを得ないとしたら、柔らかさを守り、生かすためにした方がいいことがある。

 「オフに手術」って話題を見るたびに、「(気のお医者さんに)気づいてくれよ」と願う。

2018年11月15日木曜日

プロアスリートと精神論と医科学

 科学的なトレーニングや栄養学に基づいた食事、サプリメント。きちんとした理論や説明があって取り組むことができるってのはいいよね。

 アマチュアだとどうしてもこう、「指導者と選手または生徒」っていう関係になっちゃって、「全員でグラウンド100周じゃ! 終わるまで帰さんぞ」(※台詞はイメージです)みたいな日々になりがちなんだろうね。

 プロになれば、コーチも選手もまあ、雇われつつもお互いが個人事業主な面もあるわけで。いかに自分で考えて取り組むか、生き残っていくかって部分が強くなる。

 精神論というよりも根性論がまだまだ幅を利かせてるのが日本のスポーツ界で、それに反発する形で医科学にどっぷりになるプロアスリートも多い。

 ただね、ここでもやっぱり、精神論と医科学の二元論みたいになりがちで。その真ん中とか、もっと向こう側とか、そこまで想像できてない人がほとんどなんだよね。その偏りがケガや不調を呼ぶっていう感覚を持てない。

 日本のプロ野球なんかでもね、球団がデータ活用に積極的になってきたり、ビジネス面での変革も進んできたけど、基本的には「MLBに学ぶ」路線でしかないように見えるんだよね。

 成功例から引用する方がプレゼンも導入も容易なんだろうけど、東洋医学と西洋医学が併存できてる日本って国にあって、日本人とスポーツの可能性を柔軟に追究するみたいなのがさ、全然ないよね。

2018年11月14日水曜日

アスリートの食事とサプリメント

 「食べるのも仕事だぞ」みたいな情況ってあるよね。アスリートなんかはもう、嫌々食べたりというか、無理に食べさせられるようなことだってあるでしょう。

 それ、今すぐやめた方がいいよ。

 嫌々食べる行為は、正しいエネルギーにならない。正しい身体にならない。大変な量のサプリメントを飲むのもそう。

 科学的に必要だったり、機能するはずだったりしてもね、にこにこと元気に役立つようなエネルギーには変換されない。

 一時的、物理的に理想の肉体、見た目を手に入れることはできるかもしれない。「肉体改造が成功した」となるかもしれない。

 でもその「強化された」見た目の中を流れるはずのエネルギーは、流れになっていない。ブツブツと途切れたものが、バラバラのまま移動しているような感じ。

 だからケガをしたり、病気になりやすくなったりする。

 医科学の発展がスポーツの進化を支えていることは確かだけど、医科学に基づくトレーニングで以前よりもパフォーマンスが落ちてしまったアスリートはかなりいる。年齢が理由にされちゃってることが多いけどね。

 「アスリートをデータに当てはめようとするトレーニング」は失敗するよ。

 アスリートに必要なのは、人より優れたエネルギーの流れを生み出して、それをパフォーマンスに繋げることなんだから。困ったら「気のお医者さん」においで。









2018年11月13日火曜日

サプリメントのコツ

 サプリメントを目の前にして「さあ食べよう」と思える人がどのくらいいるだろうか。

 サプリメントは「栄養補助食品」だけど、おいしそうだと感じるにはかなりの技術が必要となる。

 しつこく書いてきてるけど、「おいしく食べる」に勝る栄養はない。「おいしいものを食べる」とか「食材にこだわる」とかはもう、二の次三の次。

 栄養素だけを「摂取する」っていうのは、無表情、無感情な物質だけを取り込むってことで、それがその人本来のエネルギーの流れをむしろ阻害する、なんてこともあるのよね。

 「サプリメントは飲むな」とか言いたいんじゃないのよ。僕だってちょいちょい力を借りるしね。

 ただ、それが習慣になるとね。何となーく、惰性で続けたりしちゃうじゃない。摂取する側とされる側の両方が無表情になっちゃうっていうのは、「カロリーだけが身体に入ってくる」みたいな感じでね。難しいのよ。

2018年11月12日月曜日

料理が完成するとき

 料理が作られるのは、目の前に運ばれるためではなく、誰かに食べてもらうため。

 作る人の「おいしく作る能力」だけでなく、食べる人の「おいしく食べる能力」も試される。どんなに優れた料理人であっても、食事の100%を管理することはできないということ。

 目の前の料理の持つエネルギーを引き出せるか、台無しにしちゃうかは食べる人にかかってるわけね。そう考えると料理人ってのは切ないような気もするけど、無闇な責任感も無用ということで。

 理想的なのは、料理人の込めた「気」と食べる人の「気」が掛け算のように組み合わさって、何倍ものエネルギーに変化すること。

 胃に入ったものを具体的にイメージするのは結構大変。料理が完成するのは、食べる人が飲み込む直前ってとこかね。

2018年11月11日日曜日

ホールフードとは何かね

 「ホールフード」という考え方がある。食材を丸ごと食べるのがよろしいって感じかね。ミンチとか粉とか、部分だけを食べるのは駄目よっていう。

 いいよね、分かりやすくて。

 では、分かりにくいことでお馴染みの「気のお医者さん」は、ホールフードをどのようなものとして扱うのでしょうか。

 人が料理に込めるエネルギー、気というものがあります。

 作る人が込めるエネルギー。これはまあ、よく言われるやつ。「料理は愛情」とか、「うちのご飯が一番だね」とか、あとあれだ、「誰かを思ってにぎるおにぎりは美しい」とかね。

 もう一つは、食べる人が込めるエネルギー。「おいしそう」だと思って食べるのと、「食べたくない」と思って食べるのとでは全然違う。

 インターネットの時代になって、ますますこう、栄養素とか素材だけを取り上げてね、食べろだの食べるなだのって情報が踊り狂っておりますがね。

 人の食べる力ってものが軽視っていうか、ないものとして語られていて。分かってんだか分かってないんだかみたいな人たちが日々「不衛生不衛生まずいまずい食えたもんじゃない」とかのたまっていらっしゃる。

 まあ、断定して分かりやすくしたいのが人の常でございますからね。

 ミンチだろうが粉だろうが、色んな食材を組み合わせて一つの料理にする力が人にはある。

 ジャンクだろうが電子レンジだろうが、おいしく食べる力が人にはある。

 そういうものが意外と複雑に絡み合っているのが、人の食事でございまして。目の前にあるその料理、一品だろうがコースだろうが、それを一つの「ホールフード」と見なすのが気のお医者さんの立場で。それをきちんと、残さず食べるのが大事ですよ、と。

 そういう前提があるもんだから、給食の話も難しいんだよなー(笑)。

2018年11月10日土曜日

無理に食べさせるとどうなるか

 前々回までの給食シリーズでもちらっと書いたけど、無理に食べさせる、食べさせられるってことは結構あって。

 無理だというものを泣いてまで食べさせると何が起きるか。

 「食べたくない」と思われると、食べものはひねちゃう。「お前は駄目だ」と言われた人間と同じようにいじけてしまって、本来持っていたエネルギー(気)が急速に悪化する。

 僕はもう、これが一番もったいないことだと思う。

 物理的に食べものを食べものとして扱わないこと、食べずに廃棄することを世の中では「フードロス」と呼んでるけど、本当のフードロスはその前から始まってるのよね。

 食べものをおいしそうだと思うこと、食べたいと思うこと。おいしい、食べて良かったと思うことが一番重要なんだけど、それを邪魔する要素が多すぎるのよ。

 食事が正義でお菓子が悪。グルテンは悪。糖質は悪。ジャンクフードは悪。オーガニックだけが正義。

 まあ、そうやって定義づけちゃえば楽だからね。やっぱりこう、悪いところを見つけて、食べる前から判断しちゃいたいのよ。

 その人が食べてる様子をしっかり見て、自分の目で判断するのって大変だから。

 「それ以前に箸ができないから駄目」とか言う方が楽だから。

 たまにね、超一流のアスリートの偏食が話題になったりして、無意味な常識に衝撃を与えたりするじゃない。で、必ずお医者さんやら栄養学の先生やらに聞いてみた的な記事なんかが出て、「極めて特殊なケースだと思われます」みたいな感じになってて、常識さんたちは「やっぱりそうだよな」って安心する。

 好きなものに集中することで得られる「素晴らしく効率の良いエネルギー」をスルーしちゃう。これってとんでもない損失だけど、科学で証明されてないから全部でたらめですうふふ。

 給食なんかでも、「(こんなの)食べたくない」って思われる前にね、「いらないんだったら食べたい」っていう子に食べてもらえるのが一番いいのよ。

2018年11月9日金曜日

気のお医者さんと食の問題と言い訳

 「気のお医者さん」の談診の難点は、一口に説明できないところ。「ここが悪い、治したい」って依頼に対して、ダイレクトだったりピンポイントだったりっていう方法を採るわけじゃない。本人が思う以上に、症状は内部深部から起きているからね。

 究極の内部深部である「仁」へのアプローチだからこそ効果があるんだけど、「この傷にこの薬を塗ります」みたいな分かりやすさがない。

 食の問題も同じで、ピンポイントで扱うのが難しい。すっごい難しい。これを食べろ、これは食べるなって話で済ませられないし、済ませるわけにもいかないから。

 えー、何が言いたいのかと申しますと。

 給食シリーズは失敗だ! まとめ損ねた!

 ははははは。

 まあそのー、完食させろいや食べ残せっていうね、アホみたいな二元論じゃどうにもならんだろと思って書き始めたわけだから、色んな角度で書くのは必然ではあったんですが。「僕ならこうするよ」って部分がこれでもかってくらい薄まっちゃってね……。

 給食だけで解決しようとするからいけないんだというのが僕の考えで。少なくとも「給食と学校と家庭」っていうサイクルで、食育という狭さを超えてやっていかないと駄目だろうと。

 それがまあ、タイトル詐欺みたいな散らかり方になってしまったのはもう仁絵ちゃん、間違えたひとえにワタクシのですね、至らなさの力不足のこんこんちきのでございます。

 ただそのー、気のお医者さん的にも食の問題って大事なんで、次回以降もですね、ちょっと継続して書いていこうかと思っております。

2018年11月8日木曜日

給食を残すとか残さないとか・後編

 前回のつづきでございます。

 食べられない子を落ちこぼれとして見せしめにし、「それが嫌なら食べられるようになれ」と促すことにはもう、なーんの生産性もない。

 周りと同じようには食べられない人がいるのなら、周りよりも食べられる人もいる。決められたおかわりだけじゃ足りない人だっている。好きなものならいくらでも食べられるけど、好き嫌いは割と激しい人。好き嫌いなく食べられるけど、量はそんなに必要ない人。

 誰かの苦手を誰かの得意が補って、クラス全体として完食することを目指す。集団としてのフードロスについて考える方がよっぽど生産的だと思うんだよな。

 「連帯責任」とかいう激ヤバ思想じゃなく、クラスという社会の「需要と供給」をうまくやりくりしながら、完食という目標を達成していく。これは経済の勉強にもなりますよお母さんお父さん。英語だのプログラミングだのより役に立つかもしれませんよ、ご家庭でもできますからねっ。

 「給食の時間だけはスター」っていう人が現れるかもしれない。食べられる人が尊敬される時間があったっていい。いっぱい食べないといけない体質だってあるんだし。そうなればきっと、食べられない人の体質や「食べられない以外の部分」に目が行く時間だって生まれる。

 色んな生徒がいて良かった。それを教えてくれる家族以外の大人がいて良かった。デジタルまみれの時代は進んでいくだろうけど、食はたぶん、どこまでもアナログでしょ。基本は人間なんだってことを愚直に、柔らかく学べるような可能性がね、給食にはあってほしいんだよな。

 僕にとって給食は、とても楽しい時間だった。クラスメイトの食べ方から学ぶことがたくさんあって、残さず食べたいとか、もっと上手に食べられるようになりたいとか、誰に強要されることなく、食への興味が広がっていくような。

 ただその、昼休みに野球やるのも楽しみだったもんだから、早食いの癖がついちゃってね。何かちょっと無駄に太ってたけど。

 ※この記事は不良品なので、次の記事も読んでやっておくんなさい。

2018年11月7日水曜日

給食を残すとか残さないとか・中編

 前回のつづき。

 時間がないとき、急いでるときっていうときに、減点方式は便利なんだよね。いいところを探すよりも、駄目なところ、気にくわないところを探す方が早いでしょ。中卒よりも高卒、高卒よりも大卒の方が無難だろうから、最初っから大卒だけ採用しようっていう。

 遅くとも小学校からそういうシステムに組み込まれるんだから、会社の人事だってそうなりますわな。目に留まる書類を提出できるかどうかが一次審査で、「興味を引く書類を出してくれ」って凄いよね。いちいち行間まで読んでられないから一目で違うと思わせろっていうのはもう、お忙しい証拠ですからね。減点方式を採用せざるを得ないわけで、いやあ、頭が下がります。

 そんなところに採用されないで済むってのは、応募者にとっては実は幸いでもあって。より良い出会いを信じ続けるか、読まれる書類を作る努力をすれば済むんだからやってみようと考えるか。

 ええと。

 問題の根本を探ろうと思うとこうやって散らかってきちゃって、読む方が飽きちゃったり「私が悪いのかもしれませんが、何が言いたいのか分かりませんでした」ってなっちゃうわけですね。

 だから「給食は食べ残せ」だけで書くべき。できればTwitterで完結すべき。それができない奴は時代の流れについていけない落ちこぼれだから自己責任で死ぬべき。

 三行で判断したいのよね、皆さん。減点方式で。

 でもさあ。根本は生存競争だとしてもね。人類が数千年の歴史を積み重ねてきて、子どもの教育が減点方式、見切り主義みたいなのでいいのかね。

 学校給食の光景が昭和のね、僕の時代と未だに同じって「時代の流れ」はどうなってんのかね。中編というからには続こうかね、次回に。

2018年11月6日火曜日

給食を残すとか残さないとか・前編

 「給食は食べ残せ」みたいな記事があった。まあね。「完食するまで許されない」とか「昼休みに入っても泣きながら」っていう古い現状に対するカウンターだし、見出しで勝負しなきゃいけない時代だし。

 でもね。

 うるせえな。

 ほんとうるせえなって思う。「科学的な裏付け」とかを並べておいて結論が「食べ残せ」って。対極のキャッチコピーを打ち出すことで古い現状を打破しようってのは基本だろうけど、何だよそれ。その記事を叩きたいわけじゃないのよ。そういうのばっかりじゃございませんか、最近。っていう。

 日本の教育の基本に「落ちこぼれを作らない」っていうのがあって、発生してしまった、または解消できなかった落ちこぼれに対しては「なかったことにする」。教育って学校だけじゃないよ、会社でも続くんだよこれ。凄いよね日本。いやあ、素晴らしい美しい。

 だからいじめを隠すし、落ちこぼれにされた者は登校拒否か転校しか選べなかったりする。

 「できること」よりも「できないこと」に着目せざるを得ないのは、社会がしばーらくの間ね、減点方式でうまくやってきたから。富国強兵、国難突破。これは民主主義とは呼ばんでしょう。

 凹んでるとこがあるってことは、出っ張ってるところもあるってことなんだけど、成果主義の減点方式では、そういうところに目が行かない。

 できる子を称えるよりも、できない子を笑う。集団としての生徒たちがそうであってもいいけど、教師が、担任が率先してそれをやって生徒のウケを狙うような、そういう空気が僕のクラスでもあった。笑う側も笑われる側もやったな、僕。次回に続こうかな。

2018年7月27日金曜日

JINSのお医者さん・後編

 ちょっとつづき。

 これまでのJINS体験とあまりにも違ったというか、もはや別次元だったので、その素晴らしい店員さん(店長さんだろうか?)に聞いてみた。

 「お給料はちゃんと六倍くらいもらってるんですか?」

 もらっていないどころか、新入社員と変わらないそうだ。新入社員としては多くもらえるけど、そこからあまり上がらないんだとか。

 いいのかそれで。

 もう一度書くけど、これまでのJINS体験とは次元が違う。これまでがたまたま悪かった、たまたまそういう店員にしか当たらなかったというのは、確率論としてもおかしかろうよ。

 これはもはやお医者さんだと思えるほどの体験は、病院に行ったって保証されない。

 詳細を記すとあんまりあれだから控えるけど、眼鏡屋さんとしての経歴もなかなかな人で、仕事だから眼鏡をかけてみてるんじゃなくって、眼鏡に愛情をもっている。

 だからこそ、人と同じお給料で働けるっていうのもあるんだろうけど。

 そんなんでいいのかこの世の中。

 いや、だってね、これだけの体験で無料なのよ。

 封筒で個人的に包めば良かったかね。それがまずけりゃ、黄金色のお菓子でもさ(意味は同じ)。

 いやあ、それじゃ根本的な解決にはならんよね。

 JINSに陳情してみようか。

2018年7月26日木曜日

JINSのお医者さん・前編

 JINSに行った。伊達眼鏡を買うためではない。妻の眼鏡の再調整のためである。

 どんな度なら強いのか弱いのかも分からない僕と違って、妻の眼鏡は大事なもの。顔の一部とかいうレベルを超えた必需品。表示価格のまま買おうとすると分厚いレンズになり、歪みが強くなるので、薄くしなければならない。いいお値段になる。

 その割に、快適そうに使っている印象がない。

 痛いとか落ちてくるとか、しょっちゅう言っているような気がする。

 調整するためのJINSにも、何度も付き合った。蔓の部分を温めてくにゃくにゃっとやるやつ。かけ直して、「もうちょっと」とまた直す。

 「どう?」と聞いても、いつも「うーん」みたいな感じで、またすぐに駄目になる。

 引っ越しも終わってまあまあ落ち着いたので、近くのJINSへ行ってみた。

 凄い人がいた。

 いつものくにゃくにゃをやらない。

 妻の顔を見て、眼鏡を見て、蔓を動かして、「ここの金属の輪っかがすり減ってます、たぶん」とねじを外す。片方はすり減り、もう片方はすり減りすぎて消えていた。

 「古い型だから今のパーツで合うかどうか」と言っていたけど、合うのを見つけてくれた。

 もう一度妻の顔を見て、鼻当てを違う型のものに替えてくれた。

 妻に「どう?」と聞くまでもなかった。こんなのは初めてだった。

 繁忙期の引っ越しで、各業者のろくでもない仕事を見せられてきた。

 プロがいた。プロに会えた。

 妻の喜びようを見ると、このJINSの人はもう、眼鏡屋さんを超えてお医者さんだなと思った。ちょっとつづく。

2018年3月21日水曜日

笑い事じゃないじゃない

 おしゃべりよりは寡黙の方が尊ばれる、みたいなところがある。他人の秘密をべらべら喋るか喋らないかっていう寒天、わーい僕寒天大好きいくら食べたって太らないもの黒蜜三倍くださいな、ううん違うの。観点。他人の秘密をね、喋るかどうかっていう観点ならそりゃね、間違いなくそうですよ。

 でも、自分の失敗、特に恋愛絡みのことなんかは、人に話して、できれば笑ってもらっちゃった方がいい。

 消化できるならいいんだけど、自分で時間をかけて自然になんてね、そんな風にできる人っていないよ、なかなか。

 上手に笑ってくれる相手を探すのも大変だけど、「笑ってもらいたくて話すよ」って前置きをするような癖をつけるといい。「いや、ちょっと笑えないんだけど」みたいなリアクションが欲しいわけじゃないって切り出してるのに、そういう反応しかできないならそりゃもう、相手もアホってことだから。真面目なだけで器の小さい奴なんて、友人としてふさわしくない。

 自分の中っていうのは、思っているよりも暗い。暗くて、風通しも悪い。

 そんなところに失敗をね、「外に出せない恥」として隠しておくでしょ。もうね、すぐ、簡っ単に腐るんだよね。

 だから、隠しておかずに空中に放つ。これは凄く大事。

 独り言じゃ駄目だから、誰かとの間にね。で、笑っちゃう。

 笑いは消毒、殺菌になる。暗い話や悲しい話、とても言えないみたいに思い込んでた話も、湿気を含んで重くなっちゃってただけだなって気づく。

 男の趣味、女の趣味が悪い人っていうのはね、何かこう、間違った秘密主義みたいなところがあったりするよ。

2018年3月10日土曜日

男運悪いちゃん

 全国の「男運悪い」さん、こんにちは。

 前回ちょこっと書いたけど、あなた方は「男運が悪い」のではないのでどうぞご安心を!

 男選びのセンスが間ー違ってるんだよおおおおおおおおおおおおおおっ。

 被害者の顔して「ちぇんちぇー、恋愛運を見てくだちゃい、いつ良くなりまちゅか」じゃないの。「恋愛成就で有名な神社にも結構行ってるんでちゅけど」じゃなーいの。

 男の趣味が悪かったり、出会いがなかったりするのにはね、自分に原因があるの。

 そこに取り組めばいいの。雑誌には書いてないの。ゆるふわを意識しても駄目なの。あなたの愛されとその辺の愛されは違うの。愛されが発動しない原因はね、個人個人の、結構深いところにあるの。そこを見たくないでしょ? 見たくないから、「男運悪い」はまだまだ続くの。この先も続いていくの。

 っていうか、あなたが好んでその道を歩んでいるの。

 本当にやめたいなら、やめられる方法はあるの。

2018年3月6日火曜日

予想はしてた

 「予想はしてた」とか「予測できてた」、「何かあるだろうなとは思ってた」。ショックを受けないように、しておく心の準備。まあ、誰でもする……、いやいや、そんなこともないか。

 えっと。

 備えておけば、ショックを軽減できる。だから備える。

 それでも、ショックを受けないかといえばそうでもなくって。「ショックはショック」。これを認めちゃうってことは大事なんだよね。誰かに話せちゃえばもっといい。

 「こんなことで自分は傷つかないから大丈夫」っていう姿勢を見せなきゃいけない人もいるでしょう。そんな事情もあるでしょう。

 だけどそれをね、自分に対してもやっちゃうと駄目なのよね。

 「ずっとそうしてきた」って人も多いだろうけど、それは必ず身体に出る。自分にも見えないようにする習慣になっちゃってるから、自覚させるのにも時間がかかる。「根治までの道のりがたーいへん」ってことね。

 いいこと(男ならダンディズム)だと思ってやってる人も多いんで困るんだけど、秘密や隠し事っていうのは、どう呼ぼうが「嘘」。

 自覚と無自覚とによらず、嘘は不調に繋がる。無口でいれば、身体が雄弁になる。素直になる、素直になれる時間を持つって、結構大事よ。

2018年3月5日月曜日

Ten十

 数ヶ月前、ふいに天重が食べたくなった。そして、今に至るまで食べていない。

 食べりゃいいじゃんと思うけど、あんなに好きだった天丼も(あんなってどんなだ)重たく感じるようになった僕が、何で天重を食べたいんだって考えちゃうのよね。

 少年の頃、伯父の家に行くと「鰻重か天重か」と聞かれた。僕にとって天重といえば、恐らくその味。よそで食べた記憶もないし、自分で選んだ覚えもない。面倒をかけないよう、母親が一括で選んでいたんじゃなかろうか。

 伯父のことを思い出しなさいよというヒントだったのかもしれない。だとしたら長く考えすぎだな。

 天丼を食べられなくなったことを寂しく思うときがある。天重を食べてごらん、ってことかな。

 考えてないで食べてみりゃいいのにね(笑)。あの味じゃないって思ってしまうこととか、適当に入ってみる気軽さを持ってみることを面倒に感じているのかもしれない。

 ってな感じで結局ね、何ヶ月も平気で食べずにいるんだから。そこまで食べたくないんだろうな。ここまで思い続けて、「シンプルに胸焼けして終わった」とかじゃ哀しすぎるとか、何だこれ、駄目な恋みたいになってるな。

 「あっ! てんやの持ち帰りならほぼ天重か?」とひらめいたような気分になるけど、「店まで行くなら入るわ」ってもう、何なのあたし自分が嫌いになりそう、ううんもうなってる、ほっといてもうほっといてよヨヨヨヨヨ。

2018年2月25日日曜日

日常こわい 4

 つづき。

 「自分を変えれば治る」よりも、「治らない」を受け入れる方が楽だという構造があって、病気やケガはそこに上手に寄生する。

 寄生しやすい、定着しやすい形を無意識のうちに提供する癖を、人の心はもっている。

 それを知ってしまうこと、そういう自分の陰を知ることは怖い。「自分と向き合う」というフレーズは量産されてるけど、実際に向き合える人なんかほとんどいない。

 自分を変えたくはないからと、病院で物理的に診断されることを望んでしまう。

 病名を知らされることを恐れていると思っているけど、実際はそれよりも怖いこと、「性格や生き方を変えなければならないことへの恐れ」を隠している。

 それが陰になる。陰っていうのは、恐れや嘘、隠し事のこと。

 自分が見たくないものを、他人に見られたいわけがない。物理的な歪みと、心の歪みでは醜さが違うっていうのかな。

 自分にさえも隠したい恐れこそ、病気やケガの大好物。

 病気やケガ、何だかよく分からない不調っていうのは、全部霊障なんだよね。

 霊障っていうといかにもオカルトっぽいけど、心理学が定義する心とはまた別のところにあるもの、魂だとか念だとか、そういうものだと思えばいい。「霊=生きてないやつ」じゃなくって。死霊とか生き霊とか言うでしょ。まあ、みんなにあるっていうか、みんな持ってるのよ、霊は。

 共有するのが難しいというか、実感するにも自信が持ちにくいから、物理的なものだけを認めるようになったのよね。その方が簡単だから。

 で、見えないものは存在しないことになっちゃって、見えない人が見える人をバカにするような構造が生まれて、言えないことが増えて、それらがみーんな陰になる。

 本人が光を当てさえすれば、陰は陰じゃなくなるんだけどね。

 その勇気を持ってみようかなと、とりあえずそれだけでも思ってくれれば、「気のお医者さん」が力になれますよっていうお話。

2018年2月24日土曜日

日常こわい 3

 はい、昨日のつづき。

 病気やケガというのは結果であって、原因は比較的近く、症状と直結したようなシンプルなところにある、って感じで考える方が楽なんだよね。物理的に考える方が。怖くないっていえばいいのかな。

 生活習慣病とか、職業病とかね。「日常生活に気をつけよう」と思いやすい。

 あるいは、「こういう日常なんだから仕方がない」と受け入れやすい。

 心の習慣、考え方や個人個人の人間関係に根ざしたバランス感覚。そういうものが原因だと考えるのはちょっとしんどい。

 職業が原因だと考えれば、むしろちょっとした誇らしさも生まれるけど、職場が原因だと考えなきゃいけないのなら辛い。

 日常を変えるのは大変だから。真面目な人ほど、続ける方が簡単だっていう感覚を持ってる。

 日常と性格は隣り合わせで、ずっと並んで進んでいく。日常が急げば性格も急ぎ、性格が曲がれば日常も曲がる。

 日常を変えるってのは、性格を変えることだったりする。

 「こういう性格だから」、「これはもう性格だから」っていう言い方はありふれたものだと、誰もが感じるはず。

 基本的に変える気がない。変わらないものだと思っている。

 大前提。

 まだつづく。

2018年2月23日金曜日

日常こわい 2

 昨日のつづき。

 日常ってのは大前提で、わざわざ語られないし、取り上げられることも少ない。これがもう、大きな大きな落とし穴になってる。

 日常だと漠然としすぎてるかな。ここでは「今いる環境」と「当たり前にある人間関係」と規定しよう。それを前提に生きていくことを、ほとんどの人が自動的に受け入れている。そこに手をつける、変えていく気がまあ、基本的にない。

 病気やケガからしてみれば、これ以上ないくらいに安全な場所ということになる。

 「は?」と思うでしょ。

 そうなんだよね。この考え方が難しい。

 病気やケガに意志なんてあるわけがない。何を言っとるのかねチミは、と。皆さんもう、ほとんど脊髄反射的に思うでしょう。

 それこそが今回、しつこくしつこく言い続けてる「大前提」ってやつでね。

 誰も調べない大きな陰。いつも日が当たらないから、みんなそこはそういうもんだと固定しちゃってる。日陰になってる暗い場所にわざわざ入り込んで、湿った土の上にある、珍しくも何ともないような石をひっくり返してみようとは思わない。何かがいるかもしれないけど、ふわふわのかわいい子猫じゃないだろうってのは分かるしね。

 「何となく気持ち悪いから、ここに日が当たるようにしよう!」とみんなに呼びかけるのは大変。「何となくじゃ役所は動けません」とか「最初から日当たりのいい場所を探す方が効率がいい」とか言われるし。分かりきってることだから、考えることを検討するのすらめんどくさい。

 日当たりの悪い場所なら、それはそれでいいじゃない。入らなきゃいいじゃない。見なきゃいいじゃない。車に乗ってキャンプに行く方が確実に楽しいし、気分転換にもなるよ!

 心の中にはそういう陰がたくさんあって、病気やケガの住処になる。

 つづく。

2018年2月22日木曜日

日常こわい

 「家族のために」と「家(またはその名誉)のために」というのはもう、全っ然違うことなんだけど、境界線が曖昧になりがちで、思っている以上に混同されやすい。

 日本ではそれが「所属する集団に奉仕せよ」という思想に発展して、オリンピックなんかで「メダル獲れなくてすみません」とか「残念な結果に終わりましたが」みたいな話になる。

 これは歴史的文化的背景もあることで、悪いことばかりではなかったりするから難しい。難しいんだけど、「全力を出すことが最大の貢献になる」という考え方の人が「個人プレーに走る」と非難されやすい社会を、我こそは先進国民でございという自覚の人々でがっちりと支えているようなね。そういう構造はヤバいだろと思う。

 自己犠牲が賞賛されることはあっても、自己犠牲を強いることがあってはならない。

 当事者同士ならまだしも、第三者がうるせえんだよな。インターネットの時代になってからかなと思いかけて、いや、大して変わってないだろうと考え直す。世論風説に押しつぶされたり、殺された人の数は。

 日本はまだまだそういう文化で、このブログを読んでいる人のほとんどはそういう中に生きている。

 で、そういう「当たり前の日常」がね、病気とかケガとかに結びついてることが多いのよ。「そんなバカな」と思えた人はまあ、毎日健康で幸せでね、良かったんじゃないすか。

 つづくんじゃないすか。

2018年2月21日水曜日

モスバーガー的ねじれ・後編

 昨日のつづき。

 アスリートやアーティストみたいな、マスコミを通じて広く知られるような人たちにもこういうことがしょっちゅう起きていて、「それを受け入れちゃう方が楽」とか、「それもまた自分なんだろうな」みたいな言い方もよく聞くんだけどね。

 よく見える浅い部分で起きていると思っていたもつれやねじれが、いつの間にか見えないところ、深い深い、手の届かないところまで沈み込んでしまう。

 それが謎の不調に繋がったりするんだけど、そもそもの原因が本人にも見えなくなっちゃってるもんだから、「どこの病院もお手上げで」みたいな悲劇が出来上がってくのよね。抜け出す方法は(ここに!)あるんだけど、本人がもはや悲劇の方を欲しがっちゃってたりして。

 冬季オリンピックの真っ最中でしょ。「アスリートを国に奉仕させるのが当たり前」みたいなこの国の雰囲気、いつまで続くんだろうね。

 インターネットが普及して、国中がオリンピック一色みたいな時代じゃなくなっていくような気もするけど、炎上とかのね、新しい変な一体感もあるじゃない。

 意志の強い、何かを貫き続けられるような人がね、多くの声ならまだしも、大きいだけの声に潰されるわけにはいかないのよ。だから「続けられなくなってしまう」という、悲劇的な理由を欲しがる。身体がそれに敏感に応えちゃう。

 こういうねじれは何も、アスリートやアーティストに限ったことじゃなくてね。慢性の肩こりとか腰痛とか鼻炎とか、「治らない」「仕方ない」と思ってる症状の原因になってることが多いよ。

 ただねー。信じないんだよな、そういう人たちって(笑)。付き合いが長いってだけで、「自分の症状は自分が一番分かってる」みたいな顔で威張ってんの。

 「治りたくない」ってとこを認めさせるところから始めなきゃいけないからたーいへん。やるけどね、僕! それが仕事だからね!

2018年2月20日火曜日

モスバーガー的ねじれ・前編

 「モスバーガーの苦戦」が論じられるたびに気になるのが、ファストフード扱いされていること。

 モスバーガーは自らを「ハンバーガーレストラン」と規定している。それはつまり「ハンバーガー=ファストフードではない」という宣言で、注文してから待つスタイルを当たり前のものにした、偉大な功労者だと思う。

 「ファストフードチェーン」で待ち札持たされてもすんなり受け入れてるもんね、今。

 そんな背景もあってか、いや、たぶん関係ないんだろうな。ハンバーガー的なものを提供するチェーン店は何かもう、全部ファストフードとして論じられてる感じがある。

 自分たちは違うと思ってるのに、他人はというか、客までもが「ファストフードならどこが好き?」って聞かれて「やっぱモスっしょ」みたいな感覚でいて、マクドナルドと並べて考えちゃってる。

 便宜上だろうが何だろうが、そのように扱われ続け、比較され続けると、対外的にはそのように振る舞った方が楽なのかなと考えるようになっちゃう。

 ハンバーガーレストランとしてのあるべき姿に立ち帰る勇気さえ持てればね、道は切り開けるんだと思うけど。ファストフード扱いしてくる人たちまで「お客様」にして大事にしすぎちゃうから、ねじれにねじれて、難しくなっちゃってるんだろうなと思う。

 この話は明日につづくんだろうなと思う。